節電
 
 東日本大震災とそれに起因する福島第一原子力発電所の大事故以来、節電が急に喧しくいわれるようになった。一部地域では計画節電も行われ、電気は使いたいだけ自由に使えるというのが当たり前だと思っていたのが、いっちょ間違えば使えなくなるということを、日本国中の人たちが身に染みて感じた。高速道路を照らし続けるオレンジ色のカドニュウムライト、二十四時間営業のコンビニエンスストア、深夜まで放送を続けるテレビ等々、私たちの身の回りには本当に必要なのか疑問に思える電力の使用が目立つようになった。留まることを知らない物質の大量生産と大量消費である。いまのままがいつまで続くか、保証はどこにもない。資源はいずれ枯渇する。そして地球環境は悪化する一方である。このようなことから、電気をはじめとする資源のムダ使いをやめてどのような生活をすべきかまじめに議論すべき時が来ているように思う。かといって電気もろくについていなかった時代の生活に戻れといわれても、それは無理だろう。だから、ある程度の不便さや煩わしさを我慢し許容する社会に少しずつ変えてゆくことが必要なのである。

いつから日本人は電気をムダに使うことが平気になってしまったのだろうか。その一つはアメリカ型社会への憧れがあるように思う。アメリカ型というのは、寒いところは暖房によって暑く、暑いところは冷房によって涼しくしようとする、自然をねじ曲げる考え方である。そのため化石燃料などのエネルギーを多量に使う。一方日本では昔から夏になれば、簾で風を入れ襖や障子を取り払って部屋の中の空気の流れを良くするとか、水を道にまいたりした。それらは太陽エネルギーの一つの循環の中での営みだから、環境に大変優しい。考えてみると、これまでの地球の歴史はあまりにも人間中心であった。一九五〇年頃から石油の消費が爆発的にはじまり、大きなひずみがあちこちに現れてきた。高度経済成長の時代は消費は美徳といわれ、人間は地球のあらゆる動植物や自然環境を容赦なく利用し尽くすことが進歩だと思っていた。そろそろ地球全体の調和を考えるべき時が来たのではないだろうか。効率優先という流れを、少し遅くしてみてはどうだろう。もっと物質的な欲望を小さくして、ものに囲まれていることが幸せとか、手に届くところに何でもあればいいという考え方を改める必要があるのではないか。昔の人はみんな不便で貧しく悲しく泣きべそをかいていたのかといえば、決してそんなことはない。その時代にはその時代の喜びがあり、それなりに幸福だったはずである。ほかの生物や地球を犠牲にして顧みない今の生き方は、どこか間違っている。
ここに節電人間と自他共にゆるす徹底した生活を長らく実践してきた鈴木孝夫という言語社会学者がいる。親戚や知人が亡くなると、形見分けで個人が身につけていたものを貰ってくる。靴下・ワイシャツ・下着・外套・帽子から靴まで、ともかく頂けるものはすべて頂いてくる。多くは使われずに処分されるものである。また捨てられた電気製品を拾ってきて直して使う。扇風機・ラジオ・洗濯機、ありとあらゆるものを拾ってくる。自分で直せないものはメーカーのサービスセンターに問い合わせ、多少のお金をかけても直して使う。人は古いものを直すより新しい物を買った方が安いですよなどと言うが、こんな言葉は絶対信じない。留学生が生活に必要な電気製品を揃えようとするとお金がかかって仕方がないというときは、よし俺に任せておけと安請け合いし、拾って直した電気製品一式をプレゼントする。大喜びだったことは言うまでもない。元は拾ったものだから自分の懐はほとんど痛まない。
また食べ物の廃棄では日本は世界一である。ある資料によれば食料全体の一〇パーセント、量にして一千万トンが捨てられているそうだ。コンビニでも作って何時間以上の者は捨てなければいけないという規則だそうだ。昔は本当に食べ物を大切にした。とにかく家庭でも捨てるものなどほとんどなかった。落っこちたご飯一粒でもムダにしようものなら酷く叱られたものである。

鈴木氏は何でも拾うのが趣味であり生きがいである。軽井沢の山小屋で、七〇歳を過ぎ、定職を離れてからは毎年四月から十一月くらいまで過ごす。家の郵便箱は落ちていた板を拾い集め組み合わせて作り、暖房は薪が基本で、燃料は倒木がそこら中に転がっているので、手押し車で半径一キロぐらいの範囲をあっちへゆきこっちへゆき集める。石油や石炭などの化石燃料を使えば環境に負担となる炭酸ガスが発生する。一方薪はそれを燃やしたときの炭酸ガスの増加は、それほど問題ではない。拾ってきた薪は乾燥するまで大変で、それを運び上げ、家の中に置くのも一苦労、燃やすと灰が出る、煙突掃除もしなければならないので、本当は大変である。しかしそれこそが喜びであり、自然のものを使って環境にあまり負担をかけずに生きていると言う満足感が得られるのである。山小屋の暮らしでは山の中で生きるための労働が楽しみであり娯楽なのである。地球がにこにこしてくれているという自負を持っているから、どんどん楽しくなってくるのだ。こういう生活を貴族の楽しみというのだそうだ。人に強制されず自分で高く苦しいハードルを決めて、それを越すことを楽しむことである。

 

 

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