一方、老いは一様にやって来るわけではない。足腰の衰えが先に来る人もいれば、急にぼけが始まる人もいる。急に老け込んでいく人もいれば、年齢の割には若く見える人もいる。溌剌として仕事にもレジャーにも精力的に大車輪の活躍していた人が、ある日急に病に倒れ、あっという間に亡くなると言うこともある。また長寿を全うする人もある。自分は後(あと)どれくらい生きられるか、はっきりしたことは誰にもわからない。子供達が将来の目標をもって生きるのに対して、老人の視線は不確かな霧の中を彷徨(さまよ)いながら歩いているようなものである。しかも老いの受け止め方も千差万別である。私も近頃やたら物忘れがひどくなり、こんな調子であと数年もしたら認知症へだだ走りだと、暗澹たる思いに駆られる。まわりの若い者に余分な手数を掛け、迷惑がられるくらいなら、いっそある日ばったり息絶えた方が良いな~と思う。しかし死ぬと言っても、そうこちらの都合の良いようには死ねないのも事実である。じつに心中穏やかならずである。しかし人も様々で、もう一方では、それを良いことにして、まわりがどう思おうが俺の知ったことかとばかりに、マイペースでひょうひょうと生きる人もいる。周囲から相手にされなくなって孤独に悩む人もいるし、これまでの人間関係を断ち切って、新しい仲間を求める人もいる。これまでの仕事に更に磨きを掛ける人、全く違うことを始める人というように、老年期の過ごし方はそれぞれ異なっている。それは老いの内容がそれまでの人生の過ごし方によって大きく異なるからである。このように老人は個性的な存在なのである。だから、子供たちと同じように集団で扱うことは出来ない。
さてその老人だが、年々増え続け、いわゆる少子高齢化は今大きな社会問題になっている。このままの状態が続けば、二人の若者で四人の老人を支えて行かなければならないという。若者達は自分たちの人生の大半を、老人のために生きると言うことになる。既に現在老人介護施設に関する様々な問題、介護に掛かる費用等、長寿社会は国家全体としても難問になっている。そう言われると我々老人は肩身の狭い思いになる。しかし寿命が延びて老人が沢山居ると言うことには、別な視点で見ると然るべき理由があるのではないか、また厄介者の老人にも、実は社会に及ぼす大きな価値があるのでははないかと考える。ある学者の論を引用させて頂く。
人類の進化の過程で老年期の延長は脳の増大と関連がある。ゴリラの三倍の脳を持つため、人間の子供はまず脳の成長にエネルギーを注ぎ、体の成長を後回しにするよう進化した。脳が現代人並みに大きくなるのは約六十万年前である。ところが遺跡に明確な高齢者の化石が登場するのは数万年前で、ずっと最近のことである。これは、体が不自由になっても生きられる環境が整わなかったからである。定住して余剰の食糧を持ち、何より老人をいたわる社会的感性が発達しなければ、老人が生き残ることは出来ない。
では何故、人類は老年期を延長させたのか。高齢者の登場は人類の生産力が高まり、人口が急速に増えて行く時代である。人類はそれまで経験しなかった新しい環境に進出し、人口の増加に伴った新しい組織や社会関係を作り始めた。さまざまな軋轢や葛藤が生じ、思いも掛けなかった事態が多く生じたであろう。それを乗り切るために、老人たちの力が必要になった。人類が言葉を獲得したのもこの時期である。言葉によって過去の経験が生かされるようになったことが、老人の存在価値を高めたのであろう。しかし、老人たちは知識や経験を伝えるためだけにいるのではない。青年や壮年とは違う時間を生きる姿が、社会に大きなインパクトを与える、これこそ老人が存在する大きな価値なのである。
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