がんばろう日本
 

外国で頑張る中国人の経営者は、非合法で入国してきた同国人を奴隷のような環境で働かせると言う。そういう話を聞くにつけても、日本人ならこういう酷い扱いはしないだろうと思っていたら、近頃、日本人の残酷さに愕然とさせられる。それは風評被害である。単に福島県産と言うだけで買わないか、場合によっては当局側に抗議の電話を掛けるかメールを送りつけると言うではないか。その抗議の声には、ご丁寧にも「不安の声」という衣を着せるのだから始末が悪い。それを受けた当局側は、理を尽くして説得するわけでもなくビクつくだけで、結果は「中止」で幕を引く。何という卑劣な残酷さか。

 ついこの間まで「がんばろう日本」と言ってたのはどこへいったのか。あれだけ震災直後の日本人の毅然とした態度、思いやり、その同じ日本人が、我がこととなるとかくも酷い仕打ちを平然とやり、しかも恥じない。  京都五山の送り火での騒動、愛知県日進市で起こった花火を巡る騒ぎ、大阪府河内長野市の橋桁をめぐる騒動、福島県産と言うだけで食品への拒絶現象。これらはメディアが問題視した例だが、これ以外にも表面には出てこないヒステリー現象は数知れずあるに違いない。その殆どは感情的なものに過ぎなく、単なる思い込みだけで日本人が同じ日本人に対して拒絶反応を起こしているのだから、卑劣な振る舞いと言うほかない。このように振る舞う人は自分の胸に聞いてみると良い。不幸に見舞われた同胞に対してかくも残酷になれるのか、それがほかの誰でもない自分なのだということを。
また被災地に出た膨大な瓦礫の処理をめぐっても同様な卑劣な騒動が起こっている。この処理への協力を申し出たのは東京都と山形県だけと言う。しかも処理しようとしているのは、原発とは無関係な岩手県と宮城県のものだけだと言うのである。最初は処理に手をあげたのは四十二都道府県、五百七十二の市町村であった。しかし住民側からの抗議と不安に寄り切られて、簡単に上げていた手を下げてしまった。そのとき各首長は本当に理を尽くして説得しただろうか。岐阜の場合でも放射能汚染が危惧される瓦礫を引き受けることは、住民を守るのが使命の私には到底引き受けられませんで締めくくった。それに対して誰一人異論を唱える者すら出てこないのである。何と言う卑劣さ残酷さであろうか。まるで今の日本は抗議と不安だけが肩で風切っているようである。自分の考えることだけが正義だという思い込み、この種の思い込みくらい、お互い力を合わせないと機能しない住民共同体にとって害毒はない。各地で起こっている放射能騒ぎに至っては、醜悪以外の何物でもない。おしゃもじが放射能測定器に変わったひと昔前の主婦連を思い出す。今回の原発事故で、絶対安全などというのは神話にすぎないと知った。東日本大震災と言う不幸を契機に、絶対安全神話から卒業しよう。そして風評被害の加害者になることからも卒業し、日本全体で処理することによって瓦礫からも卒業しようではないか。
月日が経って日本国中が当初のショックを忘れ始めたのか、利己的な行為が見られるようになった。福島県の食品や福島県から避難している人への拒否反応が見られるようになった。モンスター・ペアレンツが頭をもたげ始めたようである。醜く恥ずべき行為だと誰かが言うべきである。このような行為が市民権を得てしまう前に、明確に断罪しておくべきである。首相を始めとする政治家、メディアならはっきり口で言うことが出来る。指導層に属する人々の責務である。
話は変わるが、近頃思うことに、日本人の顔のことがある。良い顔になっている人は良い仕事をした人で、醜い顔に変わった人は良い仕事をしなかった人である。肉体上の美醜にも社会的地位にも全く関係なく、この評価は相当な確率で当たる。イタリヤ語に、「うまく年齢を重ねた人」という言葉がある。要するに良い仕事をしていると老いても美しいというわけである。美形なのに醜く変わった人は、批評するためにだけ批評している人に多い。昔は大人になったら自分の顔に責任を持てと言われたが、今でもそれは変わらないだろう。昨年ブータンへ旅をしたが、生活水準は日本に比べてかなり低く、道路や橋などのインフラ整備も遅れ、国全体も個人も決して豊かとは言えな国だが、遭う人皆実に良い顔をしている。身なり素振りのどこにも卑しさがないのだ。この点拝金主義の亡者になり果てているどこかの国とは大いに違う。つまり心が豊かなのだと言うことである。顔のことばかり言うのも何だが、目は口ほどにものを言いというように、顔もものを言うのである。

 何故私がここで顔のことを言い出したのかというと、どうも日本人の顔が全体悪くなっていると思うからである。それは心が醜くなっていることに通ずる。今なお塗炭の苦しみの中で必死になって頑張っている東日本の多くの被災者に、長期にわたって継続的な支援、地道で具体的な行動の積み重ねこそ、今再び問われているのだと痛感する。相手の痛みを我がこととしていく、それこそが仏道にもかなう日本人の心なのである。

 

 

ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.