オリンピック
 

 ソチ冬期五輪での日本人選手の活躍はめざましかった。元来私は余り関心がない方だったのだが、フィギャースケート・スキージャンプ・ノルディック複合・モーグル・ハーフパイプ等の日本人選手たちの誇りに満ちた態度や歓喜に思わず引き込まれた。メダルを見事獲得した選手にもまして、残念ながら一歩及ばなかった選手の、その凜とした態度には、順位以上に心に残るものを感じた。自分を応援してくれた人々の期待に応えられなかった悔しさ、自分の力を出し切れなかった残念な思いは選手たちの顔を一瞬曇らせた。だが、次の瞬間には、例外なく敗者たちは晴れ晴れとした顔で全力を尽くして戦った自分を振り返っていた。そのいさぎよさをとても美しいと思った。

 今回は十代の若い選手も多かったのに、報道陣に対する彼らの言葉を聞いていると、まるで老成した大人のように思えるほどだった。自分を支え、応援してくれた人々への感謝、他国の選手への尊敬の念を忘れない。勝ってむやみにはしゃいだりせず、いっしょに戦った仲間や敗者への心遣いを欠かさない。いったい何時(いつ)彼らはこんな立派な態度を身につけたのだろうか。そのための特別な訓練を受けたのだろうかとさえ思えてくる。
  話は突然変わるが、ゴリラを長年調査研究されている山際寿一氏はこう言っている。ゴリラも急に立派な態度を示し出すことがある。ゴリラのオスは思春期になると生まれ育った群れを離れ、しばらく独りで暮らし始める。そのうち他の群れからメスを誘い出して自分の群れを作る。独りの時は落ち着きがなく、自信なさそうに見えることもあるが、メスを得ると途端に堂々とした態度を示すようになる。やがて子供が生まれ、メスの数が増えると、泰然自若とした風格を身につける。他のオスに会うと肩を怒らせ、背中を反らせて堂々と歩き、二足で立って胸をたたく。メスや子どもが悲鳴をあげればすっ飛んで行って敵に立ち向かう。リーダーオスの一挙手一投足には、常に群れの仲間の視線が注がれており、オスはそれを意識して行動しているように見える。
  おそらく人間でも周囲から注目され、期待されていることが行動に大きな影響を与えるのだと思う。五輪選手の場合、その視線の数は半端ではない。日本国中すべて
の期待が集中しているのだから、きっと大きな重圧がかかっているに違いない。だからこそ、選手たちは自分の態度や言葉に人々の期待を乗せるのだ。自分の体が自分のものではないことを感じるからこそ、選手たちはさまざまな立場に立って戦いを振り返ることが出来るのでろう。ここで人間とゴリラの違うのは、周囲の期待を背負って戦った自分を、また自分のもとに取り戻すことが出来ることである。苦しい練習を経て栄光をつかもうとしたのは、他ならぬ自分の意思であり、自分の世界への挑戦であったことを思い出すのだ。
  それが果たせても果たせなくても、周囲がたたえようが非難しようが、力の限り戦った自分をたたえたいと思う。そして、同じように世界の舞台に登場した人々、わずかの差で出場を逃した人々に同志としてのいたわりの気持ちを抱く。その態度があるからこそ、人間はスポーツという勝負の世界に興じることができる。スポーツの勝敗は人々に敵対心ではなく、融和と連帯の心を抱かせるである。
  考えてみれば、このスポーツの精神は芸術や学問、我々の修行の世界など、どの分野でも生きているのではないだろうか。人間は同じ志を持つ人々の間で自分を高めたいと思う強い欲求を持っている。しかしその競争は勝つことだけが目的ではない。互いにせめぎ合い、高めあいながら、新しい記録や美や未知の発見にめぐりあうことが喜びにつながるからこそ、過去に置かれた限界を超えようとする。その偉業をお互いにたたえ、支え合う気持ちがなければ、これらの挑戦は生まれてこない。

 私はふと我々の修行の世界のことを考えた。若者が挑戦するという点では、スポーツの世界で頑張る人たちとほぼ同世代である。また集団でお互いしのぎを削るという点でも似ている。決定的違いは数値で表される記録のしのぎ合いではなく、先人の深い境地に少しでも迫りたいと思う強い欲求であり、競争する相手は他人ではなく自分自身だと言うことである。私がまだ若い雲水の時、先輩で道心堅固、他ごとには目もくれず、ひたすら精進していた真面目な人が、あるとき言った。「色力康健のときを追手(おうて)この分業を闘取せよ、と言う言葉がある。若い血気盛んなときは、あれもしたいこれもしたい、様々な欲望が渦巻き、右往左往しているうちに、結局志を遂げることが出来ず端なくも晩年を迎える。老いさらばえて過去を振り返り、「ああ!俺もあのとき、もっとしっかりした目標に向かって頑張っておけば良かったな~!」と嘆息する人間ならごまんといる。しかし若く血気盛んな真っ只中にあって、すべてを放擲し、高い志に向かってひたすら邁進する者はいない。結果はどうでもいい、その精神が尊いのだ。頑張れ!」
  自分を信ずる心を磨き、目標を持ち、それを果たすために多くの人々の支えをこうむり、目的のために良き環境を整え、生涯を貫いて生きることが、私にとっての宗教なのだと改めて思った。
 

 

 

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