昔はどこのお寺にも地獄極楽図絵が掲げられ、お寺詣りをすれば否でも応でも目にした。ひとたび地獄に墜ちれば、釜ゆでになったり、鬼に舌を引っこ抜かれたり、血の池地獄針の山等々、見るも恐ろしい世界に引きずり込まれ、浮かぶ瀬もない。特に小さい頃はまともに受け止めるから、ショックも大きく、かの白隠禅師も幼少の頃お寺で地獄絵を見てから、何とかこの苦しみから遁れたいと願ったのが、後年出家する引き金になったと言われている。ところが近年お寺でこの地獄極楽図絵を見ることは殆どなくなった。だいたいあの世にそんなものがあるものかと言うのが一般的で、誰も信じなくなった。ひとつは教育水準がレベルアップし、何でも科学的、合理的に考えるようになったからで、論より証拠として地獄や極楽世界が目に見える形で示されなければ、それは単なる妄想の世界の話になってしまう。しかし科学で全てが解明されているかと言えば、決してそんなことはない。むしろ生命科学も最先端になればなるほど、益々不可解なことが多くなると言うのが実体である。社会的に功成り名を遂げた人でも、経済活動のことは知っていても、我が身の死んでから後のことになると、まるで解らない。そういう普通の人の切実な悩みに答えることが出来なければ、宗教の存在意義はない。
我々妙心寺派にも檀信徒向けの生活信条とか信心のことばというのがある。「一日一度は静かに坐って、身(からだ)と呼吸と心を整えましょう。人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。」「わが身をこのまま空なりと観じてしずかに坐りましょう。衆生は本来仏なりと信じて拝(おが)んでゆきましょう。社会を心の花園と念じて和(なご)やかに生きましょう。」これが妙心寺派の檀信徒の日常心掛けておく、いわばスローガンになっている。正直言って、言葉は立派だが、結局何を言っているのかダイレクトに伝わってこない。わが身をこのまま空なりと観じて云々、と言う一節をとっても、到底一般の方々に解るわけがない。専門道場に入門して十年二十年と修行を積んで始めて納得できるのである。文言としてはその通りで、異論を挟む余地はないが、そういうことよりも、今死ぬと言うとき、地獄に墜ちず極楽へいきたいという切実な願いの道しるべになっていない。喩えは悪いが、靴の底から水虫を掻いているようなものだ。宗教に対して造詣が深いとか浅いとかに拘わらず、人間誰でもいざ死ぬというぎりぎりの所に佇むと、理屈はともかく極楽往生したいと願う。社会的に立派な人でも、ごく普通の人でも思うことは一緒である。
さて、死んだらどこへ行くかであるが、結論から言うと、極悪非道の限りを尽くした人間も、善根功徳を積んだ立派な人間も、一緒に「無」の世界へ行く。そこには生前の悪行も善行も何もない。そんな間尺に合わない話はないではないかと思われるかも知れないがこれが真理である。それを聞いて、ではこれからは悪いことをじゃんじゃんやり放題やってやると思った者はやったらいい。人間はどんな人でも間違いを起こしやすいものである。生まれてからこの方一度も間違いはないなどと言う人があったらお目に掛かりたい。だから常に戒めとして、地獄極楽図絵はあるのだ。じっと胸に手を当てて考えたらいい。極悪非道の人間にはまったく懺悔の気持ちはかけらもないだろうか。そんなことは決してない。反対にどんなに善行を積んだ人にも必ず悪行はある。そこに懺悔の気持ちを起こさない人はあるだろうか。つまり日々地獄と極楽世界を行ったり来たりしているのである。少しでも悪いことをしたときには、あの恐ろしい地獄図を思い出して自分を戒めることである。良いことをして、人に感謝されたときは、今度は極楽図を思いだしたらいい。心の深層世界を、目に見える形にして表したものが、あの地獄極楽図絵なのである。
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