まず、アメリカは日本人を〝キャッチボールの出来ない野球狂〟と見なしている。何故なら日本人は「キャッチボールで捕球したボールを投げ返すことが出来ずに、捕球したままで、〝内なる手〟で握りしめている。」からである。つまり日本人は対話が出来ない国民であると言いたいのだ。アメリカ人は徹底的な自己主張が論争の基本であると考える。相手の立場など考えず、自分の利己的な主張を激しく述べ立てるのがよいとする。それにたいして相手もまた徹底的に利己的主張を述べて反撃する。それが論争であり、彼らにとっての「対話」である。キャッチボールで投げ返すというのは、相手の利己的な主張に対してこちらも利己的立場から反論するということである。日本人はこれが出来ない。出来るだけ自己主張を抑え、相手の立場を考えながら、どうやって話をまとめていこうかと考える。話をまとめる方向に反する主張は抑制し、相手を怒らせるようなことはできるだけ言わないようにする。日本人同士ならこれで旨くいくが、外国人との間では、そもそもそういう文化は存在しない。よって日本人の対外交渉は全て失敗する。
欧米人が前提にしているのは、〝外なる手〟〝見えざる手〟である。各人が相手のことなど全く考えずに、徹底的な自己主張を言えば、各人の利害は、自然にうまく〝見えざる手〟で調整されていくという発想なのである。これはもとをただすとキリスト教の信仰から来ている。神は人間を創造するとき、本能として利己心を与えた。神が与えた本能は、押さえないで生かすことが正しいと考えるのである。
日本人は自分勝手な主張ばかりする人を嫌う。しかしアメリカ人にとっては徹底的に自分勝手であることが「神の意図」なのである。日本人は自分勝手なことを言わず、人の気持ちを忖(そん)度(たく)し尊重することをよしとするが、アメリカ人はそれは良くないとする。「思考ー行動様式が閉鎖的になると、相手の気持ちを憶測する傾向になる。日本人はこれを相手の気持ちになっておもいやりを示すことだという。わからなかったらわからないと答えればいい。シロはシロ、クロはクロとはっきりものを言うのがいい。コミュニュケーションは明快であるべきで、相手の表情から真意を伺うなんてことは、まっぴらごめんだ」。このような日本人の態度は「ずるい」と映る。裏で何かを企んでいるのではないかと映る。自分を外にさらけ出すことができない人は、精神的不具者と映る。日本人はそれがわからないので、外国人に接するときも内なる手を頼りにする。しかしそんなものは日本人同士の間にしかないのだから、対外交渉の場では、全く調整作用を期待できない。期待できないものに期待し続けるから、硬直化現象を起こす。こういう場合、外圧によって日本の硬直化した外壁を打ち砕き、「我々と同じルールを覚える」 ようにしてやるのが、日本のためにもなるというのである。しかしこれも余り外圧をかけ過ぎると、日本人はパールハーバーのような奇襲攻撃に出るかも知れない。外圧を掛けるときは報復を招かないようにしなければならない。そのための手段として有効なのが「トロイの木馬作戦」である。
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