一応予後観察のため一時間程度病院にいて貰ったが、その日のうちに歩いて帰っている。ADA欠損症というのは、ある酵素ができないため免疫不全が起こり、直ぐに感染症にかかってしまう。病状がひどい子は一生を無菌室で送ったりする。それでも病気にかかりやすく、大人になるまで生きる人はまれである。この治療を受けた女の子は、手術を受けたときは四歳で、写真を見るとひ弱そうな子供だったのに、今では体も大きくてスポーツ好きのティーンエージャーに立派に成長していた。この遺伝子治療を世界で初めて行った医師に聞くと、遺伝子治療の技術は十年以上前に開発し、数々の動物実験で安全性を確かめ、ヒトへの臨床応用は、世の中の納得を得るのに十年かかったという。一般の人は遺伝子治療など気が狂ったアイディアだと思ったし、各界からものすごい非難を受けた。人間の尊厳を脅かすものだと考える人が多かったのである。そこであらゆる機会をとらえて、遺伝子治療の意味と意義を訴えていった。初めはとんでもないと言っていた人々が次第に変わっていった。
最初の成功後、世界で約四千例の試みが行われたが、結果は良くない。治療を受けた後死亡した患者の方がはるかに多い。これには理由がある。「他の選択がない」という条件の下でやるので、ほとんどの治療が末期ガンの患者に対して行われたからだ。成功率の悪かったもう一つの理由は、遺伝子を細胞に中に運び込むベクターが思ったほど働かなかったことである。これは基礎研究がまだ足りないと言うことだと考え、もう一度研究室に戻ろうと提案し、基礎研究を深め、ベクタター(媒介者)もずいぶん改善され、テクニカルな改良も進み、成功率が上がってきた。近い将来はあらゆる病気の治療が基本的には遺伝子で治療されるようになるだろう。医学における第四の革命と言っていい。第一の革命は、水道と下水道による環境の浄化。これで感染症が劇的に減った。第二の革命は麻酔薬を使った外科手術。第三の革命はワクチンと抗生物質で、いずれも医学を飛躍的に進歩させた。それらに勝るとも劣らない飛躍を、遺伝子治療はもたらすと思う。さて先ほども申し上げたベクターの改良だが、今最も注目を集めているのが、HIV(エイズウイルス)である。そんなものを遺伝子治療のバクターに用いて安全かと誰しも思う。なぜHIVバクターなのかというと、今までのバクターには欠陥が多すぎるのに、HIVバクターにはそれがない。エイズは非分裂細胞の典型である脳で発達するので、非分裂細胞への感染能を持っている。この感染能を生かしたまま、エイズウイルスを無害化できれば、最高のベクターになると考えた。エイズウイルスのゲノムは完全に解読され、どの部位が何をやっているかが全部わかっている。毒性もどこにあるかもわかっている。それらを全部一つ一つ取り除き、空いたところに治療に使いたい遺伝子を入れてやる。現在すでにあるどんなベクターと比較しても、はるかに能力の高いベクターである。エイズウイルスが遺伝子治療のベクターとして役立つ日が来ようなどと誰が予想しただろうか。
ここで我々が学ばなければならないことは、遺伝子の世界で起きる毒性と、普通の化学物質の起こす毒性とは全く違うと言うことである。これは遺伝子組み換え食物の毒性に関しても同じことが言える。害虫による被害を減らすためにBtタンパク質遺伝子を使う。Btタンパク質の毒性は、Btタンパク質の受容体を持つ生物にしか効かない。哺乳類の場合はそもそも受容体がない。だから万一酸性の胃を通り抜けたとしても何の害もない。Btタンパク質は既に殺虫剤として使用されており、昆虫以外の生物に対する安全性は確立されている。 |