第九回  典座(てんぞ)

  典座とは飯炊き係のことである。道場では大変名誉で重要な役になっている。何故なら多くの信者さん方から頂いた大切なお米を扱うわけで、一粒半米重きこと須弥山の如し″と言われ無駄の無いように、しかも心を込めて調理しなければならないからだ。又他の者が坐禅修行している間に、米をといだり味噌を摺ったり野菜を刻んだり、ひたすら縁の下の力持ちに徹するのである。その上自分自身の公案工夫も同 時にやらなければならないわけだから、修行者として余程の力量がないと勤まるものではない。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
 ところで昔はお米に小さな砂利などがよく混ざっていたものだ。そこで飯炊きはまずお盆に必要な分量の米を拡げ、その中から石粒を探し丹念に取り除くことから始めなければならなかった。うっかり見落としそのまま炊いてしまって、運悪く高単の口の中でガリッ!と音を発てようものなら、途端に大喝一声が飛び万座の前で床に頭を擦り付けて謝るはめになる。だから決して疎かに出来ぬ作業なのである。
 道場の朝の食事は米麦半々のお粥と沢庵。昼は矢張り米麦半々のご飯と味噌汁に沢庵。夜は朝のお粥と昼の麦飯、それに味噌汁を全て混ぜ 合せ雑炊として食べる。毎日がこんな内容の食事の繰り返しだから、食べる側も神経がこの三種類のものに集中して、ちょっと飯が堅いの柔らかいの、或いは味噌汁が濃い薄いの、果ては沢庵の厚さに至るまで矢鱈とうるさくなる。一見さして難しい作業の様には思われないが、しかし実際やってみるとこれが中々難しいのである。その上ピッダリ分量を合せ、決して翌日に残飯を持ち越さない様に調節しなければならず、これも至難の技である。食べる方といえば一向お構い無く自分の腹具合に応じて食べるだけで、 二十数名に及ぶ雲水一人一人の体調迄予測してその分量を決めてゆくのである。
 当然のことながら煮炊きも昔ながらの竈でやる。これに必要な焚き付けの柴や薪は細く割ってすぐ火が付く様に段取り良く準備して置かなければならない。ご飯は湯炊き″という方法で、予めお米は研いで置く。次に水を量り、それがグラグラ煮立ったところへ一気に米を放り込む。満遍なく火が通る様に掻き混ぜた後すかさず蓋をする。この時の火力は最高になる様に竈の中を調節しておかなければならない。そして約十分前後したら、勢い良く吹き上げる湯気の色あいと匂いで、ここぞという時を見計らっ て一気に竈から全ての薪を引き出してしまう。 後は余熱で炊き上がるのを待つだけだ。この方法は一度に大量のご飯を炊くには大変便利であるが、一つ薪を引くタイミングを誤ればたちまち真っ黒焦げの大失敗になりかねない。しかし何事もスイッチ一つで後はお任せという現在では当時の失敗の数々が却って懐かしく思い出されるのである。

 

 
 
ZUIRYO.COM Copyright(c) 2005,Zuiryoji All Rights Reserved.