第十二回  独 参(どくさん)

 起床の合図がかかり飛び起きてから朝課・堂内諷経・梅湯茶礼と息付く間もなく次々に行事があって漸く坐禅を組み、約一時間後カーンカー ンと独参″の喚鐘の音が境内に響き渡る。その音を聞くや否や堂内で坐っていた者達は一斉に脱兎の如く走りだす。これぞ修行生活の眼目、参禅入室である。それまでの威儀肅々とした態度は一変し、この激しい動きに始めての者は度 胆を抜かれる。
 これは臨濟宗独特の修行法で、道場に入門すると間も無く老師から一人一人に公案≠ェ与えられる。朝と晩に一回づつ必ず老師の部屋に入り、その答え、つまり見解(けんげ)を呈する。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
大抵の場合は全員の参禅入室が許されるのだから、何も慌ててどたばたと、飛んで行く必要も無さそうなものだが、一晩かかってひねり出した答えを少しでも早く老師に聞いて貰いたいというのと、その答えが正しいのか間違って いるのか知りたいという思いからである。その上間違っていれば更に次の工夫の目処になるような一言が聞ければこの上ない訳で、少しでも人より早く入室したいということになる。特に雲水が二十人、三十人というような大人数ともなれば尚更である。
 ところでその公案だが、禅宗史上様々な高僧達の問答商量、或いは言行などから意義ある話を抽出し、修行の段階に応じて巧みに構成されているもので、その数は一般に千七百の公案といわれている。そのうち最初に与えられるのは、隻手″か ″自己″か無字″と大体決まっている。新参者はまず独参の作法を先輩から教えられ、恐る恐る入室し初めての公案を貰うと、 これでやっと一人前の修行者として仲間入りできたという実感が湧いてくる。
 とは言うものの例えば両手叩いて声がする片手に何の声かある″とか、自分の父母が未 だこの世に生まれる以前のお前を見てこい″と か、公案とは何が何だかさっぱり解らない問題で、誰もが途端に行き詰まってしまう。だからといって参禅室で黙っていようものなら、老師に目から火が出るほど罵倒される。では喚鐘が鳴ってもそのままじっと禅堂で坐っていれば良 いかと思えば、今度は直日(じきじつ・禅堂内の指導者)から「何をしているか!」と激しく叱られ、坐ったままずるずると外へ引き出されてしまう。まさに地獄の責め苦とはこのことである。これを初関と言い、修行者が一度は通らなければならない大きな関門なのである。これは自得以外にない。水を飲んで冷暖自知という言葉があるように、実際に水を飲んだ者でなければ、その味わいは解らない。この何とも苦し い状況が透過するまで何年もの間続く。
 曾て私と入門し三年間努力を共に重ねた男が遂にこの難問を透過出来ず、去って行ってしまった。将来を大いに嘱望され、その先にはどんなにか素晴らしい光明が待ち受けていたかも知れないのに、何とも惜しいことであった。
 

 

 
 
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