第十三回  日転掃除(にってんそうじ)

 一に掃除、二に坐禅、三に看経というように掃除は僧堂での修行上最も大切なものである。朝の勤行、坐禅、喚鐘などの諸行事が終わるといっせいに雑巾掛けが始まる。特に僧堂は板の間や廊下が多いので各自持ち場がきめられており、ともかく時間内に終わらせなければならない。新参のうちはつい世間の癖が出て、呑気にやっていようものなら途端に先輩から、「何をもたもたしているんだ!成り切ってやれ!」と罵声が飛ぶ。多少粗雑でもそんなことはあまり 問われず、ともかく勢い良くてきぱきとやるのが一番だ。また日によっては午前中に講座があるので、その前にあらかじめ講本の下見をするのだが、それが終わるとすぐに日転掃除である。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
堂内員はみないっせいに腰上げ、玉襷をとって境内の掃除にかかる。ところがそのころは一番眠たいさかりで颯爽とは言い難く、実は睡魔に鞭打って掃き清めているのである。だからその後の本番の講座は皆一同揃ってこっくり白河夜 船で、途端に講座台の上から、「起きとれ!」と老師の怒鳴り声が飛ぶ。
 「一日作されば一日食らわず」百丈和尚の遺 訓が今尚連綿として守られ、何の報酬も見返りも求めずただひたすら自らの修行のために心の内を磨き、掃き清めてゆくのである。
 神秀の「時々に勤めて払拭して塵埃を惹かしむることなかれ」という言葉にもあるように、我々の心には知らぬ間に煩悩や妄想や分別、道理などという塵が積もる。これが修行の一番の大敵で、いくら頑張ってもそういう塵で心の中が一杯に詰まっていたのではどんな良いものも染み入ることはない。皆さんのご家庭でもほとんど閉めっきりで使っていない部屋なのに、いざ客を迎えようとなると、うっすら埃を被って いて、やはり一回ぐらいは雑巾掛けをしないといけないと言うようなことがあると思う。はたきを掛け箒で掃き出し、堅く絞った雑巾でしっかり拭くと何だか自然とこちらまで清められた 気持ちになるものだ。
 今からもう二十数年も前になるが、私が僧堂での修行に一応の区切りを付けて鎌倉の寺に住職することになった時、京都を出立の朝、師匠の梶浦老師の処にご挨拶にうかがうと、老師は「鎌倉に行ったら毎日掃除をしとれ!それだけで良い。もう一つ雲水衣で通せ。和尚の衣など着るな!」と言われた。当時はなんだそんなことかと思っただけで、その深い意味も理解できずに過ぎてしまったが、今から思えば本当に有 り難いはなむけの言葉だった。これからは僧堂での規則ずくめの縛られた生活から一変して、一人っきりの呑気な草庵暮しが始まる。若いからうっかり間違えればとんだ事にも成り兼ねな いわけである。事実、今迄に何人も十数年の修 行をあっという間に元の木阿弥にしてしまった例がある。毎日欠かさず掃除をしていればそれは同時に心の掃除にもなるわけだから、これに 勝る戒めはない。いまさらながら掃除の持つ深い意味合いを感ずる。
 
 

 

 
 
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