第十四回  托 鉢 (たくはつ)
 一、六、三、八は托鉢日である。古来よりそう決まっている。実際には諸行事とぶつかったり、大接心に挟まったりと予定通りにいかないこともあるが、大体このぐらいの頻度で托鉢に出る。托鉢をまた分衛(ぶんね)といい、三人から五人がひと組になって、朝八時ぐらいから街頭に出て、いわゆる乞食行(こつじきぎょう)をするのである。
 分衛は他の慳貧(けんどん)を破り我慢を挫くの法にして最も大切なことなり″と知客寮(しかりょう)告報にもあるように、托鉢を受ける一般の方々にはけちで欲深い心を捨て去ることを教え、また托鉢をする修行者にとっては自らの慢心を取り除く最良の方法とされている。素足に草鞋がけ、前には瑞龍僧堂≠ニ真っ白 に染め抜かれた看板袋を掛け、『本日は瑞龍僧 堂より仏性のお志をお願い申します。』と一軒一軒の軒先にたたずみ、大きな声で唱える。入門したての頃はこれで自分はいよいよ修行の世界 に入ったのだと実感させられたものである。路 地から路地へ一軒残さず繰り返しやって行くう ちに生意気盛りの裟婆っけがだんだん取れて行 くのを感ずる。
  今でも忘れられないことがある。入門してわ ずか半月も経たぬうちに彼岸大遠鉢で名古屋方 面へ連れていかれた。これは三人一組になって 九日間、ご縁のあるお寺や信者さんの所に泊め て頂きながら、連日托鉢をする修行である。早 朝に出立してまず名古屋駅に降りた。朝の激し く混雑するコンコースの中、引き手さんからい きなりあのキヨスクの前でやれ!と命ぜられた。 買い物客の群がるその背後から突如、『本日は 〜』と大声を張り上げてやりだしたものだから 回りの人は思わず逃げ腰になった。「こいつ何 物だ!」と言わんばかりの顔で見られ、修行未 熟な私は顔が真っ赤になり身も心も硬直してし まった。まだ若かったうえ入門したてで精神的 にも在俗と変わらないような頃のことだったか ら、これは本当に辛かった。
  また托鉢をしていると思わぬことに遭遇する ことがある。この時も見知らぬ土地で声を枯ら して軒先に立っていると、小学生が自転車で通 り過ぎて行った。しかし直ぐに引き返して来て、 何事かと思っていたらいきなりポケットから 「はい」と言って百円玉を差し出した。呼べど 叫べど一向に人の出てくる気配のない路地をひ たすら托鉢し続けていた時のことだったからこ の時の喜捨は一層心に響いた。きっとこの子に とってこの百円はその日のお小使いの全てだっ たに違いない。いつしか私の心は爽やかになり、 卑下の心も増上慢な心も一瞬のうちに消し飛ん でいた。
  その後十数年に及ぶ修行の間、私は深く被っ た網代笠のわずかな隙間から世間に触れ、時代 の風を膚で感じながら繰り返し托鉢に出掛けた。 今自分のしている修行がどれ程尊いものなのか を教えられたのも、この托鉢による乞食行から である。
 
 

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 

 
 
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