第三十一回 開 板(かいはん)
 

 禅堂の前門、扉の脇に厚い欅の「木板(もっばん)」が吊されている。時を知らせるためのもので、日に何度となく打ち鳴らされる。打ち方は常に七、五、三で、朝暗がりから夜が白々と明け初める頃打つ木板を「朝開板」、夕方段々日が暮れて、これから夜の坐禅に入る時打つ木板を「晩開板」と言う。連打する場合は成るべく丁寧に長く打つのが良いとされているが、木槌は相当な重量で、これが言うほど簡単ではない。その他、午前中真威儀出頭のとき大鐘に続けて打ったり、また午後の晩課のとき半鐘に続けて打つこともある。何れにしても常に行事の区切りには必ず打ち鳴らされるものである。
 お寺の「鳴らしもの」には他に大鐘、半鐘、太鼓、雲板(うんばん)、柝(たく)、引馨(いんきん)などがあるが、意外なことにこの木板が一番遠くまで響く。冬季、暗闇の中を出立する托鉢の時、何キロも歩いた先の静かな山々に、僧堂の木板の音がコンコンコンコンと響き渡るのを聞くのは、それは実に良い感じだった。
 また晩開板には特に深い想い出がある。木板が打たれると夜の坐禅が始まり、直ぐに参禅が待ち構えている。刻々と迫る頃、僅かな時間を南敷き瓦で待機する。丁度その頃夕陽の沈む時間で、茜色に輝く夕焼けを眺めながら、何と美しいものかと思った。自分の心の中は真っ暗闇、参禅室で老師に何と言おうか全く目途も起たず困り果てているときである。後年、住職をしてから幾たびとなく夕陽を眺めることはあったが、この時の夕陽の美しさに勝るものはなかった。断崖絶壁に立たされている心境で見ると、同じ風景も心に深く染み渡るものである。
 ところで木の板を木槌で打つわけだから何年も続けていると当然中心は削られて板も段々と薄くなる。丁度丸い穴のように凹んできて、これを打つにはちょっとこつが要る。下手に的が外れると木槌は在らぬ方向へ跳ね返り、しかもいい音が出ないということになる。

 打つたびに木屑がぼろぼろと落ち、木板の下はゴミの山になる。古来、打ち続けて遂に貫通したら目が開いたという理由で、終日休息になると聞いたこ とがある。だからかたきのように力を込めて打つのだが、ぼつぼつ穴が空く頃かな〜などと思っていると、大抵知らぬ間に新調されてしまう。
 また木板の表面には「生死事大、無常迅速、光陰可惜(こういんおしむぺし)、時不待人(時ひとをまたず)、」と墨書されている。木板を聞きながら修行は一刻の猶予も成らないことを実感し、更に精彩を付けて奮闘努力するのである。、つまりこの木板の音は単に時を知らせるためだけのものではなく、油断するな!という警告音でもあり、矢のように通り過ぎる時間を改めて思い起こさせるものなのである。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
 
 
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