第三十五回  把針灸治
 僧堂では曜日に関係なく、ほぼ一週間が一単位となって日程が組まれている。月初め一日と十五日が祝聖、その間を二等分するため、一ケ月は計四等分される。この間に必ず一日づつ合計四日、把針灸治がある。この日は文字通り破れた法衣や作務着の繕い、衣服の洗濯をしたり、医者へ行って治療などをする日である。午前中、内外掃除を済ませると午後、禅堂南敷き瓦に集 まって器用な先輩から、かぎ裂きの繕い方などを懇切丁寧に教えて貰う。小さい頃から小僧で鍛えられ何事にも通じていて、着物を一枚縫い上げてしまう女性顔負けの者まで居た。針一つ持ったことの無かった私は、お陰で運針、充て布のやり方など上手に出来るようになった。近頃は老眼鏡年齢になって針に糸を通すのが少し苦労だが、針仕事をしながら今でも昔を懐かしく思い出す。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 又この把針灸治は休息日でもあり、外出許可を貰い出掛ける事が出来る。瑞龍寺は街中の僧堂で外出も便利だが、私が修行していた道場は山間僻地だったので二時間に一本くらいしか来ないバスに延々揺られての外出であった。当時は娯楽と言っても田舎では精々映画くらいで、三本立てのチャンバラ映画を見た後、近くのうどん屋で素うどんを十杯食べて大満足しては英気を養い帰って来た。あれから三十数年の歳月が流れ一昨年の秋、或る信者さんに特別美味しい蕎麦があるからと誘われ出掛けたことがある。隣町の小さなそば屋さんだったが、ふと遥か昔を想い出し、「確かこの辺の川沿いに映画館がありませんでしたか?」と主人に尋ねると、「今はなくなりましたが直ぐそこにありましたよ。」と指さした。「当時近くにお年寄り夫婦がやっていたうどん屋があって、帰りに素うどん
十杯食べて帰ったものです。」と言うと、「そのうどん屋はうちです。」と言うではないか。これには驚いた。既にご両親は亡くなり、今はその息子さんがそば屋さんになって同じ場所で商売していたのである。
  またこの把針灸治の翌日からは大接心が始まったり小接心だったりと、何れにしても新に気持ちを引き締めて修行一途になる節目の日でもある。この制度が出来たのは修行道場が現在のような形になった江戸後期で、当時世間一般は凡そ休日などと言う観念すら頭になかった時代、考えてみると随分進歩的だったわけである。商人でも職人でも精々盆休みに数日暇を貰えれば良いほうで、後は毎日働きづめに働くのが当然とされていた時代に、伝統を重んじる道場が既に週休制を導入していたわけである。まさに時代の先端を行っていたと言えよう。禅の修行は厳しいに違いないが、人間性を無視したような苛酷な事はさせない。生身の体を持った人間なのだという考え方が根底にあって、何事も中庸を行く配慮が施されている。こういう点においても、その頃の時代背景を考え合わせると実に合理的である。


 

 
 
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