「はい!」というかけ声で終わり漸く頭を上げると、三応は予め暖めておいた茶碗に茶を注ぎ右手には高茶台、左手に縁高を持ち(中味は大豆の煎ったもの・まめに修行が出来るようにと言う縁起物)恭しく老師面前に差し出す。次ぎに殿司は堂内側より順次、菜器に入れた炒り豆をお猪口で掬い上げながら各人の差し出す紙の筒に入れてゆき、続いて薬罐で茶を注ぐ。全員に渡るや老師の低頭に合わせ全員が低頭し、茶を喫する。その後三応は高茶台・縁高を引き、ここでもう一度全員低頭、知客は再び提灯に明かりを付け老師を隠寮まで先導する。この間し
ばらくそのままの状態で待ち、知客が戻って正座、「はい!」というかけ声で一斉に低頭、知客告報が読み上げられ、引き続き垂戒がある。これでようやく大接心前の総茶礼は終わり、各寮頭のみ残って寮元衆会中評議があり、大接心中一週間の細かい打ち合わせとなる。明日から始まる大接心を目前にしていやが上にも緊張感がみなぎってくるわけである。
僧堂ではこの外にも、祝聖や大行事の前にも全員一堂に会し茶を飲む。一つの薬罐の茶を分け合ってすすることで、和合を保つのである。たとえ同じ規矩のもとで共同生活をしていても、修行は非常に個人的色彩の濃いものであるから、ややもするとお互いの気持ちがバラバラになり、勝手な行動に走りやすい。それを戒めるためにも機会ある事にお茶を分け合って飲み、さらに一層の精進を誓い合うのだ。老師のご垂戒にしても、聞く雲水の側に明日からの大接心に対して心に期するものがあるから、通常の時以上に一語一語が腹に染み入るのである。たった一服の番茶と雖もその意義は大変深く、何十年経った今でも、当時の老師の言葉が耳の奥に残っている。現代の一般家庭では親子が友達のようであることを良しとする風潮だが、節目には改まって真正面から向き合い、威儀を正して一服の茶を飲んでみては如何であろうか。形式的に見える茶札の中に意外な真実が籠められているものである。
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