坐禅の困難なところはまず足が痛いことで、大抵はこれで直ぐに挫折してしまう。確かに苦痛ではあるが、しばらく堪え忍んで頑張ってゆくと、徐々に苦痛も和らぎ、痛み慣れとでも言うのか、楽になってくる。我々も坐禅を組み始めた頃は油汗が滲み出、床の敷き瓦が歪んで見えるほどだった。矢張りこれは辛抱以外にない。さらに坐禅はそれだけで終わりではない。示衆にもあるように、数息観を続け三昧に入ることが何より肝心である。外見は悟ったような顔をして坐っていても、腹の皮一枚ひんめくれば、妄想煩悩が渦巻いているようでは本当の坐禅とは言えぬ。心の内も共に完全な坐禅になっていなければならない。心が澄んでいるか否かは目を見れば自ずから解る。
僧堂には朝晩の参禅がある。参禅室は声が外に漏れないようにという配慮から、寺の建物の一番遠く離れた場所に配置されている。瑞龍寺の場合は庫裡の裏の山際にある茶室を利用している。ここにじっと坐っていると小鳥たちが庭先のつくばいに入れ替わり立ち替わりやって来て、気持ち良さそうに囀り、水浴びをしてゆく。ぴちゃぴちゃ弾ける水音を聞いていると、何とも幸せな気持ちになる。これもじっと坐禅を組みながら聞くからであって、だから一層味わい深く至福の時となるのである。
どんなに有り難い説法といえども坐禅に勝る説法はない。修行中、私自身どれだけこの坐禅によって救われたか知れない。困難にぶち当たって如何になすべきか迷った時、まずは自らの内にある声なき声に耳を傾けることである。その
為にはへとへとになるまで坐禅を組み、心を無にして虚心坦懐になることが肝心である。余分な計らいが全て無くなれば、極めて自然で無理のない答えが自ずから出てくる。坐禅は修行の土台であり、人生如何に生きるべきかを指し示す羅針盤である。
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