第三十八回  坐禅
 禅宗と言うと直ぐに坐禅をイメージするが、元来坐禅は禅家だけの専売特許ではない。天台・真言の密教にも言い方は違うが坐禅がある。二千五百年前、インドのブッダガヤ、菩提樹の下、金剛宝座で七日七晩坐禅を組み続け、八日目の早暁、明けの明星を徹見せられ釈尊はお悟りを開かれた。ここから仏教が始まったわけで、坐禅は仏教発祥の原点と言える。従って仏教修行 の根幹には常にこの坐禅があり、一般にも大変親しまれた修行の一つである。白隠禅師の臘八示衆の冒頭にも坐禅のことが
詳しく書かれている。『それ禅定を修する者は
まず須く厚く蒲団を敷き結跏趺坐してゆるく衣帯をかけ脊梁骨を豎起し身体を済整ならしむべし。而して始め数息観を成すべし。無量三昧の中には数息を以て最上となす。気を丹田に満たしめ而して後に一則の公案を拈じて直に須く断命根を要すべし。もしかくの如く歳月を積んで怠らずんば、たとひ大地を打ちて失すること有るも見性は決定して錯まらず。豈に努力せざらんや』

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 坐禅の困難なところはまず足が痛いことで、大抵はこれで直ぐに挫折してしまう。確かに苦痛ではあるが、しばらく堪え忍んで頑張ってゆくと、徐々に苦痛も和らぎ、痛み慣れとでも言うのか、楽になってくる。我々も坐禅を組み始めた頃は油汗が滲み出、床の敷き瓦が歪んで見えるほどだった。矢張りこれは辛抱以外にない。さらに坐禅はそれだけで終わりではない。示衆にもあるように、数息観を続け三昧に入ることが何より肝心である。外見は悟ったような顔をして坐っていても、腹の皮一枚ひんめくれば、妄想煩悩が渦巻いているようでは本当の坐禅とは言えぬ。心の内も共に完全な坐禅になっていなければならない。心が澄んでいるか否かは目を見れば自ずから解る。
 僧堂には朝晩の参禅がある。参禅室は声が外に漏れないようにという配慮から、寺の建物の一番遠く離れた場所に配置されている。瑞龍寺の場合は庫裡の裏の山際にある茶室を利用している。ここにじっと坐っていると小鳥たちが庭先のつくばいに入れ替わり立ち替わりやって来て、気持ち良さそうに囀り、水浴びをしてゆく。ぴちゃぴちゃ弾ける水音を聞いていると、何とも幸せな気持ちになる。これもじっと坐禅を組みながら聞くからであって、だから一層味わい深く至福の時となるのである。
 どんなに有り難い説法といえども坐禅に勝る説法はない。修行中、私自身どれだけこの坐禅によって救われたか知れない。困難にぶち当たって如何になすべきか迷った時、まずは自らの内にある声なき声に耳を傾けることである。その
為にはへとへとになるまで坐禅を組み、心を無にして虚心坦懐になることが肝心である。余分な計らいが全て無くなれば、極めて自然で無理のない答えが自ずから出てくる。坐禅は修行の土台であり、人生如何に生きるべきかを指し示す羅針盤である。

 

 

 
 
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