第三十九回  止静
 坐禅と聞くと何時間も固い板の間に坐らされるようなイメージを持つのが一般的のようだが、 決してそんなことはない。ふんわり柔らかな単蒲団があり、しかもお尻を載せる部分は少し高くなっており、ずいぶんと楽に出来ている。時間も一般向けの坐禅会などでは精々一時間か二時間位、中を四つに分け、二十五分坐ったら後、数分間楽な姿勢になって一息つく。そして又次
の二十数分間じっと坐禅を組む。これを交互に組み合わせながら進められる。じっとしている間のことを「止静」と言い、少し動いても良い時を「経行」と言う。雲水の場合、冬期の臘八大接心になると七・八時間もぶっ続けでこの止静と経行を繰り返し、この間文字通りじっとして瞬き一つぜずに、坐禅を組み続けるのである。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

最初慣れないうちは、足が痛くなって脇の下を冷や汗がたらたらと流れるというようなこともある。余りの痛さに目の前の敷き瓦が波打っているように見えたり、果ては失神する者まで出てくる。しかしこれを避ける方法はなく、ひたすら鍛練によって痛さに慣れ、足が自然に湾曲し、坐禅に都合の良いようになるまで、頑張り続けるより仕方ない。当に地獄とはこの事だと思ったものだ。誰でもこの苦しさを乗り越えなければならないわけで、自分だけではないと自分に言い聞かせながら、辛抱するのである。後輩の中に痩せ形ですらりとした奴が居た。その男は何の苦もなく手も使わずにしゃしゃっと結跏趺坐ができ、しかも殆ど痛みはないと言うのだから、羨ましいような奴だった。何れにしても雲水修行のまず最初の難関は、坐禅の足の痛みであり、じっと止静を保つ辛さである。
 在家の居士で大接心中、雲水と一週間修行を共にする人もいた。彼は止静中、ずっと一秒づつ数え続け、チ〜ンという次の経行の合図をひたすら待ったと言っていた。こんな話を聞くとこちらまで痛くなってくる。雲水の場合は経行の時も、動くことは禁じられ、殆ど止静と変わらない。長時間に及ぶ場合は、二時間に一回位の割で、禅堂の周囲を並んで歩きながら足をほぐす。これを歩き経行と言い、少しは足が楽になり、また小用などもその間に済ませることができる。止静は線香一本が点り終わるまでの時間となっており、これを一と言う。だから坐
禅の時期は何の坐禅かで決められ、臘八の場合は十二・通常の大接心では八などということになる。
 止静中はひたすら数息観を続ける。これは一呼吸一呼吸ひと〜つ、ふた〜つ、みっ〜つ、という風に心の中で数えて行くことで、十まで行ったら又ひと〜つに戻り、これを根気よく繰り返していく。そうして知らぬ間に無心の境地に入るのであるが、これがなかなか難しい。少しでも油断しようものなら、ほかごとが頭をめぐって、妄想の渦の中に埋没しかねない。静かな中にもピーンと張りつめた空気が流れる。それが「止静」である。

 

 
 
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