第四十一回  御案内
  通常は朝晩、大接心中は朝昼晩の三回、参禅入室がある。この時、喚鐘が打ち鳴らされ雲水は聞くが早いか堂内から脱兎の如く喚鐘場に飛んで行く。平生は足音を立てて歩くのも厳しく注意されるのだが、こと喚鐘ともなれば、そう言う規則は一切外され、誰よりも早く参禅入室を果たすべく、ドッドッドッと猛烈な音を立てて走り抜ける。この時、真剣に工夫している者ほど一番喚鐘を打って、早く老師の反応を聞き
たくなる。しかし、こう言うのは一応答えがある者の場合で、幾ら工夫しても行き詰まって、二進も三進も行かなくなり、参禅したくても出来なくなる時がある。これは実に辛いもので、かと言って参禅しなければ益々解らなくなり、尚一層打てなくなってしまう。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

この場合は仕方なく堂内でぽつんと一人坐ったままとなる。すると、直日役は目の前に立ち、警策を掲げ、「御案内!」と叫ぶ。それでもじっとしたままで居れば、手巾を掴みズルズルと単から引きずり降ろし、そのまま外へ放り出されてしまう。これが「御案内」である。この際、反抗的なことは許されないが、無抵坑の抵抗は構わない。そこで単にしがみついたり、聖僧さんの柱に抱きついたりして、何とか食い止めようとするのだが、結局は外へ放り出される。一端前門より
外へ出されたら必ず参禅しなければならないので、行くも地獄留まるも地獄、この時ほど辛いことはない。常識的に言えば、答えがない時はじっくり工夫させ、次回の参禅に期待した方が良いように思えるが、これは違う。人間崖っぷちまで追い詰められた時こそ本当に良い工夫が生まれるのである。ちょっと考えたくらいで、「解りません?」などと言うのは、心の何処かにまだ余分な計らいがあって、それが工夫の邪魔になっている。その邪魔者を叩き出す為にも、この「御案内」が是非とも必要になってくるのである。
 私も修行を始めたばかりの頃、直日からこの親切を受け、答えがないまま喚鐘場に並んだことがあった。自分の番がだんだん近づいて来ると、脇の下から冷や汗がたらたらと流れ、生きた心地がしなかった。老師の前で黙っていれば激しく怒鳴られるし、だからと言ってくだらない答えを提示すれば又酷く叱責される。最初のうちはこれがどうして親切なのか全く解らず、直日の「御案内」が恨めしく思えた。しかし僧堂は上下関係がハッキリしていて、上の者には絶対服従なのである。さらに修行はひたすら前進、止まることは許されない。後年、今度は自 分が御案内役を務めることになったとき、これがどれ程、修行者の背中を押すことになるかが解っていたから、徹底的にやった。図体の大きい奴などの場合は、助警の者と二人で引っ張り出したが、これも結構重労働で大汗掻いたものだ。若い血が体中に渡っていた時代だからこそで、今となっては懐かしい思い出である。

 
 
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