第四十三回  経行(きんひん)

 禅堂での坐禅の時間は雨安居・雪安居で違ってくる。比較的短い夏場でも夜には四時間坐り、冬ともなれば、ぐっと長時間に及ぶ。特に臘八大接心になると、八時間連続と言うこともある。しかしこの間、途中に何回か、東司へ行く二便往来(便所へ行くこと)がある。三・四十分の止静が二回ほど続くと、やがてチ〜ン・チャキッ、チャキッと柝の合図があり、これと同時に、直日の「きんひ〜ん!」と言う大声で一斉に敷き瓦に降りて、禅堂の外回りを雁行するのである。これを経行と言い、歩いている間にそっと輪から抜け出して便所へ行っても良いのである。済めば再び輪の中に入り経行を続ける。この間凡そ十分ほどで、再びチャキッと言う柝の合図と共に一斉に禅堂に戻り、さらに坐禅を続ける。新到の頃はまだ坐禅に慣れていないため、足の痛みは極限状態となり、目の前の敷き瓦が波打ってきたり、歪んで見えてきたりする。額には脂汗がじっとり染み出て、「もう駄目だ!」と思っているときに聞く、直日の打つチ〜ンは、まさに地獄に仏である。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 坐禅もだんだん慣れてくると、さほど足の痛みもなくなり、特に経行が待ち遠しいこともなくなる。それでも周囲を歩くと滞っていた血液が一斉に動き出し、睡魔も吹っ飛び、また新たな気分で、次の坐禅に臨むことが出来るので、経行は大変良いものである。
  ところでこの時、歩く速度は相当な速さで、未熟な内ははじめ、痛む足が直ぐには戻らないために、びっこを引き、顔を歪めながら歩くという、無様な格好をさらすことになる。また、厳寒の季節は、ピューピュー吹き抜ける寒風に、叉手の外側の手が特に冷たく、密かに手を組み替えては歩いたものである。禅堂周りの敷き瓦はこの経行のために幅広く取ってあり、明かりは禅堂内から漏れるわずかな電球の光だけなので、殆ど薄暗い中を歩くことになる。慣れないとうっかり前の者の草履を踏んずけたり、ぼ〜としてコーナーを曲がらず外へ飛び出たりする者もある。
「道中の工夫、静中の工夫に勝ること百千万倍」という言葉があるように、坐禅を組み続けて拈堤工夫することも重要だが、実際には体を動かさず工夫をすると、同じ處をグルグル堂々巡りすることがある。そんなとき、この経行で体を動かし歩きながら更に工夫を続けると、意外にはっと気が付くことがあるものだ。だから経行は決して単なる気晴らしというようなのではなく、修行にとって極めて大切なものなのである。
 僧堂修行は、ただむやみに肉体を痛みつけるだけでなく、人間を多角的に鍛えてゆく、先人の知恵の結晶なのである。 

 
 
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