第四十四回  法鼓(ほっく)

 禅堂では諸出頭はすべて鳴らしもので知らされる。雲板が鳴れば朝食・昼食であり、柝が鳴れば夕食・作務等である。本堂出頭は行事の種類によって鳴らしものが変わり、その中でも重要な儀式には必ずこの法鼓が打たれる。毎月一日と十五日の祝聖、講座、開山忌、特別な法要などである。大抵は本堂南側隅の頑丈な台の上に置かれ、大きな寺になればなるほど太鼓も大きくなる。従って打つ者は専用の踏み台に乗り、玉襷を取って打つ。 この役は殿司でも下役の係だから、あらかじめ打ち方を稽古して置かなければならない。これが相当難しく、ちょっとやれば直ぐ出来るというしろものではない。そこで暇を見つけては少しづつ稽古をしておくわけだが、何せ大太鼓で寺中に響き渡るものだから、勝手に打つことが出来ない。だから老師不在の時や全員山作務で境内には誰も居ないようなときに、許可を貰って稽古するのである。この点が回向の練習などと違うところで、稽古時間が限定される上、一番難しいのだから皆苦労する。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

嘗て小僧をしていたお寺に、近くの僧堂の雲水さんが、法鼓の稽古によく来ていた。本堂前に半僧坊があり、祈祷のための太鼓が備え付けられていたので、それで練習したのである。本山僧堂は地方僧堂とは異なり、勝手に大鐘や殿鐘を打つことが出来ない。そのため朝課出頭はすべて法鼓を打つので、殿司寮に入れば直ぐに稽古が必要になるのである。
  ところで私は稽古中の雲水に、そこが駄目だ、ここがもう少し、などと言うことだけは一人前に言う。しかしお前やってみろと言われたら、悲しいことに法鼓が打てないのだ。
私が入門した頃は雲水も大人数で、既に小僧で鍛えられたベテランがわんさと居て、へたっぴーが分け入る余地など無かった。そうこうしているうちに評席となり、打たなくとも良くなったので、ついに打てず仕舞いのまま、今に至ったわけである。この反省から、うちでは制間中一ヶ月半、晩開版後は全員に法鼓の稽古をさせている。そのため二・三週間もすれば大抵打てるようになり、以後は毎朝の出頭を法鼓にして、実地訓練をさせている。何事も本番でやってみてこそ自信もつくわけで、最初はとんちんかんな処もあるが、辛抱してやらせていると、徐々に旨くなってくる。

  十数年前、本山で開堂をしたときのこと、厳粛な儀式もさることながら、上堂前のど〜んど〜んと言う、腑に響き渡るような法鼓の音が一番印象的だったと、それを和歌にされた方が居る。僧堂の鳴りものは、単に行事を知らせる合図と言うだけでなく、法要儀式と深く結びついた重要な役割を担っているのである。半僧坊祈祷用の太鼓なども、打ち鳴らされるだけで何だか願いが届くような気になる。法鼓とはダイレクトに心に響く大切な法具なのである。
 
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