第四十五回  提唱

  講座とも言われ、制中は二・七・五・十のつく日に行われる。従って毎月十二回ほど開かれることになるのだが、この通り決められた日に行われるわけではなく、多少ずれることもある。
標準的には午前九時仏餉をお供えし、お経を読み、大鐘が打ち鳴らされた後、木版三通、法鼓出頭となる。提唱には講本があって、うちでは目下碧巌録を用いているが、これは老師によっていろいろで、沢山ある語録の中から好きなのを選んで使う。年に六回、一週間づつ設けられる大接心は、一切の作業を止め、専ら坐禅中心に日程が組まれるため、提唱も標準的時間帯に開かれる。しかしそれ以外の日ともなれば、日中さまざまな行事が入ってくるため、時間をずらしたり、やむなく中止せざるを得ないこともある。そこでうちでは晩開版後、一しゅ坐ってから始めることにしている。こうすると他事に左右されず、いつも決まった時間に開くことが出来るからである。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

 さてこの提唱だが、これは語句の解説というわけでなく、講本の内容に従いながら、どこまでも修行者への進むべき目標を掲げるのが真意である。雲水にとって本参の話頭、つまり公案に向かって工夫専一が修行の中心なのだが、与えられた問題の意味すら分からないのが実体である。丁度真っ暗闇の大海に放っぽり出されたようなもので、どこを目指して船を漕いで行けばよいのか五里霧中なのだ。そんな時、老師の提唱される一言一句が、恰かも灯台の灯りのようにピカッピカッと光り、雲水はそれを手掛かりに進んで行くのである。
  私の師匠だった逸外老師は方便は苦手な方で、話しはいつも同じことの繰り返しだった。またかと、耳にタコができるほどだったが、今にして思えば、ほかのどの話しよりもずっと耳の奥底に残って、私を支える杖言葉となっている。「最後の最後の最後の最後の最後の最後の最後まで、やれば必ず成る」「窮して変じ変じて通ず」「敵は多きが良し、我に倍する敵はなお良し」。老師は常に実体験からの話しをされ、人の借り物では駄目だと強調しておられた。「自己の胸襟より流出して蓋天蓋地にして、まさに少分の相応あるべし」。徳利を振って音がしないのは一杯詰まっているか空っぽの時だ。底に少しだけ残っていると、しゃびんしゃびんと喧しく音がする。禅僧はべらべら喋るなと、常に戒めておられた。

 提唱はその禁じられたお喋りとは相矛盾するわけだが、腹の底から絞り出すような迫力ある話しぶりは、老師の全人格の吐露であり、生きた禅を目の当たりにする思いであった。つまり提唱とは、話しの内容ではなく、老師の禅僧としての存在感そのものを、膚で感ずることなのである。だから何十年経っても新鮮に心に残るのだ。老師は今もなお、提唱し続けておられるのである。

 
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