第四十八回  総参

 僧堂では朝晩決まった時間に、必ず参禅があることは、既に申し上げたと思うが、総参(そうさん)の時は、文字通り全ての雲水が必ず参禅しなければならない。大接心(おおぜつしん)の初日の晩参と接了の最後の参禅が総参となる。大接心初日、これからいよいよ一週間の厳しい修行が始まるという緊張感で一杯の中、晩開板の木版(もっぱん)がコンコンと打たれ、チャキッチャキッと析(たく)が打たれる。次にチヤキッ、チ〜ンと引馨(いんきん)が細く長く鳴り響くと、喚鐘場で知客(しかっ)さんが鐘をゆっくりと間を開けながら七・五と打ち鳴らす。およそ最初の七声が打ち終わるころ、堂内では侍者(じしゃっ)さんが大きな声で、「そ〜さん!じきじったん!」と言う。この声を聞いたら直日(じきじつ)を先頭に直日単全員が一斉に単を降りて雁行しながら喚鐘場へ向かう。この時だけは喚鐘の鐘は一声で然も打つのは知客さんである。前の者の参禅が終わって奥の方からチリンチリンと振鈴が聞こえるとカ〜ンと鳴り、深々と低頭し間訊(もんじん)の後、老漢が待ち構える参禅室に向かうのである。問答が終わり引き上げてきたとき、喚鐘に向かって正座し低頭する。この様に順次参禅が行われ、直日単がそろそろ終わるころに、堂内では侍者さんが再び大きな声で、「たんと〜たん!」と言う。今度は単頭単の者が一斉に単を降り雁行しながら喚鐘場に向かう。


『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所

こうして接心に参加する全ての雲水の参禅が行われるのである。総参はいつもながら常の参禅と違い一段と緊張するものである。またこれは大変長時間に亘り、大人数の時などは相手をする老漢も重労働となる。
  通常の参禅は良い見地(けんち)が浮かばなければパスしても差し支えないが、総参は何が何でも行かなければならない。進退窮まって、脇の下から冷や汗がたらたらと流れ落ち、顔面蒼白となる。言うことがなく黙っていれば激しく罵倒され、くだらない答えを言おうものなら、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけられる。この世の地獄をとはかくの如きかと思う瞬間である。しかしこれはまた次への大きなステップとなる。人間何事でも窮しなければ、大きな転換は得られないのである。師匠はよく「窮して変じ、変じて通ず」と言っていた。どこか心に余裕があると、どうしても余分な妄想を渇くもので、ぎりぎりせっぱ詰まると、思い掛けなく閃くことがあるものだ。
  大接心の最後の参禅も総参で終わる。一週間切磋琢磨した結果、必ずしも良い結果を得ることが出来ず、臍を噛む思いで喚鐘の音を聞くときのせつなさは今でも忘れられない。夢破れ絶望の鐘の音は、しかし何くそ、今度こそは必ずやり遂げずに置くものかという、新たな決意の始まりでもある。このように総参は大接心の始めと終わりの区切りでもあり、夢と絶望の交錯する時でもある。こういう洗礼を幾度となくくぐり抜け、少々のことではびくともしない、腹の据わった、所謂大乗根気の真の修行者が出来上がるのである。総参は雲水にとっていろいろな想い出がいっぱい詰まったものなのである。


 
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