さて見性だが、読んで字の如く、自分の本性を見ることである。ではその本性とは何かだが、悟りの境地である。では悟りの境地とは何かだが、結局「何もない」と悟ることである。
入門すると直ぐに公案が与えられ、朝晩一日二回、参禅室に行って答えを提示し、良いか悪いかを点検して貰う。俗に禅問答と言われるものだが、老師と雲水の間で丁々発止の遣り取りがあると思われるか知れないが、実際にはそんなことは無い。大抵老師に相手にもされず、木で鼻を括られるような扱いで、鈴を振られて帰ってくるだけである。来る日も来る日もこの始末だから、見性などはおぼつかず、月日を重ねる毎に絶望の淵に叩き落とされることになる。
公案は千七百もあると言われているが、とてもじゃないが、一生かかっても無理な話だと痛感する。しかし禅の修行はこの絶望から始まるので、挫けそうになる自分との葛藤の日々である。参禅とは、老師に参じつつ同時に自分自身の内に向かって参ずるもので、練り鍛える中から今まで見えなかった本当の自分の姿を見ることが出来るようになるのである。
日常の自分はどうかと言えば、妄想、煩悩が渦巻き、我執のために雁字搦めになって、恰も大木に絡みついた藤蔓のように自縄自縛となり、不自由極まりないのである。それを一つ一つ取り除き、綺麗さっぱりにする。制中、毎月一週間の大接心は当にこのためにあるわけで、脇席を付けず、不眠不休で坐禅を組み続け、桶底を脱するのである。ここでの自己との戦いは、見性するために一端はとことん地獄に堕ちて、救いようのない惨めな自分と対峙する。そう言う中で、ふとした切っ掛けをつかみ、「別事無し」を悟るのである。室内で老師からそれで宜
しいと言われたときは、手の舞い足の踏むところを知らず、それまで重ねた苦労の分量だけ喜びも大きい。しかし喜びも一瞬で、即座に与えられる次の公案のために再び苦しみの日々となる。この繰り返しを十数年から二十年間積み重ね、揺るぎないものにしてゆくのである。
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