第五十二回  陰徳行
 僧堂修行は毎日分刻みで行事が行われ、個人的なゆとりの時間など皆無である。皆目一杯で、必死の思いで過ごしている。だから他人のことなど知ったことではない。ところが能力には当然差があるわけで、身の回りのことに、つい疎かになる者もいる。特に新到で堂内生活の場合、殆どの者が生まれて初めての経験で、要領はすこぶる悪い。一々説明などないから怒鳴られっ放しで、朝から晩まで息つく暇もない。そういう新人を裏から支えるのが聖侍寮で、寮頭は僧堂で一番の古手の者がやる。僧堂生活十何年などと言う強者が何くれと無く面倒を見るのである。こういうところが僧堂の実に良いところで、下駄の鼻緒が切れそうになっていればこっそりすげ替えておく。また把針灸治は骨休めしたいばかりだから、洗濯物を盥に入れたまま置いたり、竿に干しっ放しにしたりと云うことがある。そんな時は代わりに洗濯してやったり、取り込んでおいてやったりと、まるで母親のようなことをする。また修行が行き詰まったときは解定後、東司掃除をしたりということもある。これらはすべて陰徳を積むことによって、自らの襟を正し、常に初心を忘れぬようにするためなのである。

『雲水日記』画:佐藤義英
発行:(財)禅文化研究所
 また常住でも同様なことがある。先輩で人柄は良いのだがちょっと能力的に問題のある人がいた。彼は休憩時間でも骨惜しみをせず、典座回りが汚れていればいつも掃いていた。「掃いて貰って悪いね〜。」と言うと、「わしは馬鹿だから、陰徳を積ませて貰ってるんだよ。」と言っていた。禅は絶対自力で、他人の力を借りることなど何一つない。すべては自分の力だけが頼りである。こう云うとずいぶん身勝手で冷たいんですねと云う人があるが、同情は最大の侮辱である。一見聞こえは良さそうに思える言葉も、結局相手を馬鹿にしているのだ。修行には優しい言葉を掛けることなど決してないが、陰徳を積む事は初心者に対して無言の励ましとなり、また自らの内に向かって、未熟な自分に対し尚一層の精進となるのである。
 嘗て私も鎌倉の小庵に住職しながら接心ごとに通参していたことがある。常に聖侍役を仰せつかった。皆が本堂で朝の勤行中は、氷のような冷たいバケツに手を突っ込んで堂内を拭き清め、梅湯の支度をし待機する。粥座中は茶礼の支度をし、後から二番座で頂くのだが、粥は冷え切ってしゃびしゃび、五臓六腑に凍みるようだった。しかし今にして思えば、これが私には一番良い修行だった。ちょっと古手になって、下の者から恐がられる存在にでも成ると、ふんぞり返って、何様といわんばかりになる。これはすでに修行の垢なので、「得たら捨て得たら捨て!」なのである。
 修行すれば修行したという痕跡がどこかに残る。これが又新たな妄想邪念の種になる。陰徳行こそ最も重要な修行であり、この無功徳行こそ修行を自ら正して行くもので、まさに現状公案なのである。


 
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